- 湯元齋藤旅館
〒390-1515 長野県松本市安曇白骨温泉4195
TEL.0263-93-2311(代)FAX.0263-93-2176
E-Mail.info@shirahone.net
- 悠々の自然に抱かれて260余年。白骨の湯に思いを込めて湯屋から湯宿へと歴史を育んできた、湯元齋藤旅館。宿の風情と信州の情緒が織りなす館内で、ごゆっくりと湯の効能をお試しいただき、旅の和みのひとときとしていただけますよう、おもてなしのご用意を整えております。
- 白骨の歴史
鎌倉時代、北陸地方と幕府を結ぶ最短コースとして、この地に鎌倉往還が開かれていました。この頃から白骨には湯が沸いていたと云われることから、その歴史は400年以上にわたることになります。湯屋ができたのは江戸時代に入ってからで、以来、明治・大正・昭和と山間のひなびた湯治場として栄えてきました。
- 鎌倉住還から湯屋の開設
北陸地方から当時の政治の中心であった鎌倉を目指す鎌倉住還は、その後も飛騨街道として元禄14年に造られた元禄国絵図に登場するなど、信濃と飛騨を結ぶ道として定着していたことをうかがわせます。白骨には、この鎌倉住還の頃から湯が湧いていたと言われ、ここを往来する旅人が旅の中休みに湯浴みしていたかもしれません。やがて戦国の世になると乗鞍岳の麓に、武田信玄によって多樋銀山が開発されました。銀山とは言っても主鉱は鉛でしたが、鉄砲が普及しはじめた当時は貴重な軍需物資でした。ここでは鉛の精錬まで行われ、盛時にはかなりの町屋を成していたといわれています。銀山から峠を一つ越えて一里半の道のりの白骨温泉では、銀山の傷病者の療養が行われていたことでしょう。そして白骨に初めて本格的な湯屋を作り営業を始めたのは、元文3年(1738年)に松本藩から「白船制札」が下された湯元斎藤旅館の祖先にあたる、大野川村の庄屋であると言われています。
- 白骨温泉の謂れ
ここの地名は、地元に伝わる古文書によると「白船」「白舟」とあります。それは栃の大木を六尺ほどに伐って丸木舟様に彫った「フネ」と称するものを湯槽に用いていたところ、その内側に温泉の石灰分が白く結晶したところからそれを「シラフネ」と呼んだのが由来だと云われています。明治になり吉田東吾の「大日本地名辞書」が発行されると、そこには「白骨の温泉、白船の湯という。」とあります。おそらくこれが白骨の呼称のはじまりであったのでしょう。その後「白骨」の名を広く一般に知らしめたのが、大正2年9月より新聞紙上に連載の始まった、中里介山の小説「大菩薩峠」でした。以来、地元でも「シラフネ」と呼ぶものが少なくなり、いつしか「白骨」の名が定着し今日に至りました。
- 小説「大菩薩峠」
中里介山先生29歳の大正2年(1913年)9月から都新聞に「大菩薩峠」の連載が始まり、同14年1月「無明の巻」からは東京日日、大阪毎日新聞に連載が続きました。そして小説は「他生の巻」で白骨を舞台に物語が展開するのでした。その中に綿々と描かれる白骨の場面は、介山先生が大正14年8月2日にわずか1泊で構想を得たものです。そのとき宿泊されたのが湯元斎藤旅館です。
「大菩薩峠」の一節に「殊に、龍之介はここへ着くとまず第一に、「これから充分眠れる」という感じで 安心しました」とあります。「他生の巻」における机龍之介の姿は、うちに滞在中の先生のお姿を彷彿とさせるようだ。」と、先代は申しておりました。その後介山先生はなくなられる前年の昭和17年10月11日に再び訪れ、1週間ほど滞在されました。没後10年を迎えた昭和29年7月、東京作家クラブの提案で、白骨温泉旅館組合と諮って文学碑が建立されました。

(大正初期の湯元齋藤旅館)




